2010年 南九州3日間の旅

3日目 飫肥

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宮崎県庁を後に南下し、伊東藩 5万1千80石の城下 飫肥(おび)へ。


飫肥城大手門
昭和53年、飫肥杉を使用し釘を一切使用せずに復元されました。

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飫肥に到着ごは自由昼食・自由散策です。

インターネットで目星を付けておいた「おび天蔵」へ直行、
「かつをめし」と「厚焼たまご」を注文。

かつお飯はお醤油とゴマに漬け込んだかつををご飯の上に乗せ、ダシ汁をかけたものです。
美味しいのですが量が多くて持て余しました。カ
そして、ここのもう一つの名物プリンのような食感の厚焼き卵です。


おび天とは

江戸時代から飫肥地方に伝わる薩摩あげに似た揚げ物で味は薩摩あげとは異なる。
飫肥藩時代、町人たちが雑魚を丸ごとすり身にした揚げ物を工夫したといわれております。
 豆腐や味噌を混ぜ、黒砂糖が入ってたりして少し甘めで、柔らかく、独特の味わいです。

揚げたてを試食だけしました。大手門の方に歩いて行くと、

小村記念館 

日本の近代外交の礎を築いた

明治の外交宮

 小村寿太郎侯(1855〜1911)の遺徳を顕彰し、

国際交流、教育文化活動

及ぴ世界に飛躍する人材育成に

寄与することを目的に平成5年開館

  

   

城内に小学校があります。

歴史資料館
 


 

大手門をでて武家屋敷のならぶ通りを歩きました。


小村寿太郎生家

  

  

   

脇道に入ると、鯉の泳ぐ掘り割りがあります。

  

厚焼卵だけを売る店もありました。

商家資料館 

中に入ってみると

  

   

町を歩くと

駐車場の近くに四半的射場があります。

  

的までの距離が4間半、半弓と呼ばれる4尺5寸の弓と矢、4寸5分の的を射る四半的射的場です。

四半的の由来 
今を去る400年の昔、永禄11年はまさに戦国時代でした。15代「伊東義祐」公は2万余騎をひきいて居城の浮舟城(西都市)をあとに今は「島津忠親」のたてこもる飫肥城攻略に向かいました。
篠ヶ城に本陣を構えた義祐公は寸分のすきまも残さず飫肥城を取り囲み昼夜を分けず攻め立てました。
これに対して島津方の加勢援軍が包囲している伊東方を打って出ようとしましたが、伊東方は全軍突撃して島津勢を討取ることに成功した。 この戦いに伊東方は馬引、人足、附近の農民が竹作りの即製の半弓を持って参加し、「ヤーヤーソレソレ当タルワ」と大声で叫び、敵勢を圧迫し伊東方の勝利に大きく貢献した。
その後伊東藩内においては、この合戦の功績により一般、農民に娯楽用として弓矢を持つことを許可するようになったと言い伝えられている。(飫肥城四半的試射場配布資料より)

何故四半的というか
農民武道(娯楽)として許可された定が。 的までの距離 四間半(8.2m) 弓・矢の長さ 四尺半(1.37m) 
的の大きさ 四寸半(13.6cm)だったそうで、全て四半でまとまっている為、四半的と言うそうです。
特に矢の長いのが特徴だとか。

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鵜戸神宮へ向かいました。

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