2011・11・16〜18



【5】 碌山美術館





3時40分頃到着しました。



 


楜沢氏の解説

設計 今井兼次
建築は僕が今井研の世話になっていた頃、実施設計は池原義郎の手で進められ、
資金は中村屋から工事は清水建設でした。
戦後十年余の時代ですから、建設費としては、新宿中村屋としても十分でなかった、と思います。
長野県の小中学生の寄金も含まれた、ものでした。
碌山館は、ぼくの建築への動機の初体験でした。
今井兼次は当時早稲田の教授で、安曇野の赤沼千尋と親交があり、燕山荘のスケッチなど残っています。
今井は最初、北欧風(ペブスナー)の様な明快な、コンクリートの打ち放しのスケッチをしていましたが、
建築の依頼者側の芸大の笹村により、レンガ造りのとんがり帽子のスケッチを見せられて、
現在のようなデザインとなりました。
建築のあちこちに笹村のデザインが使われています。
正面の扉には碌山の言葉が残されています。
《 LOVE IS ART.   STRUGGLE IS BEAUTY 》




碌山館

   



高村光太郎の詩


詩碑そのものは写すのを忘れました。

労働者


グズベリーハウス と 美術の倉 

  
グズベリーハウスは地域の教員・高校生・中学生等の奉仕作業により建築されました。
あたたかみのある意匠にあふれた木造のハウス(枕木を使った校倉造り石葺屋根)
  


  

  

  



こんな模様が刻まれていますが、何なのでしょうか?

 



夕闇が迫るなか今日の宿へとバスは走ります。

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穂高荘



   

東京の江戸川区立 穂高荘 は、楜沢氏が戦争中に通った小学校の跡地だそうです。


楜沢氏の話

僕は国民学校3年の時、縁故で母の実家に疎開し、中学1年の4月まで、昔の「有明村立国民学校」
に在学していました。終戦で小学校になりましたが、TV(NHK朝のドラマ おひさま)の中で、空襲を受け、
校舎の窓ガラスが、全て飛び散ったのは授業が終って、掃除の最中でした。

最初は弟と二人でしたが、途中から母も疎開し、父だけが東京に残りました。

戦争中の担任の先生は、カチカチの軍国主義でしたが、戦後の先生とは亡くなるまで、文通をしていました。

教科書に墨を塗ったこと、学校の講堂にいた兵隊さんたち、プライマリーのグライダーを飛ばせる位の広い校庭、
爆弾で亡くなった同級生の母親、校庭の隅に掘られた多くのたこつぼ・・・・・・と記憶は消えません。

小学時代の同級生、10数人と交流があります。


  1. 今回の旅にはその時のクラスメートの御一人も参加されていました。

    江戸川立となっていますが、現在は区民以外でも泊まれると云う事でこの穂高荘に決められたそうです。

    昔の写真がロビーに飾ってありました。



    窓からの景色は素晴らしい!









       

       
     





    初対面の方々との相部屋も話がはずみ、楽しい夜を過ごしました。

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