2002  HARU_M のページ

 ネパール旅行  4月13日

〔トゥクチェ 2〕
(それぞれ写真をクリックして下さい)

この日の朝、ひろかさんは馬に乗って、ポーターと2人 カグベニ へと出発して行きました。
其の日は向こうで泊り、翌日の夕方ジョムソンで我々と落ち合う予定せす。
初めの日程には、入っていなかったのですが、いろいろ話しているうちに
「折角此処まできたのだから足を伸ばしたら」 と勧められて、我々ロートル組を残して
一人で行くことになりました。元気であるのは勿論ですが、大変勇気のあるお嬢さんです。

この日はトゥクチェ滞在。村の中のお寺を見せてもらいました。
普通のツアーでは望めないことです。

最初にトラチャン一族の菩提寺へ。アルジュンさんが綺麗に手入れをさせたそうです。

   
昔交易の行われた広場に面してそのお寺は有りました。
どこのお寺もそうですが、無人で鍵が掛っているので、鍵を開けて貰って拝観しました。
左の写真をクリックするとお寺の中ですが、ここの壁画を描いた、サンダイ・トラチャン が
11日に記した、都賀村の瞑想の館の曼荼羅を描きました。トゥクチェからは都賀村の護岸工事
などに人が出向き、その見返りとして、都賀村からは学校を整える為の援助があるそうです。
お寺の前庭の林檎の花が今を盛りと咲いていました。
マニ車には寄進した人のネームプレートが付いています。
右の写真をクリックすると、Mr&Mrs K・・・ のネームもありました。

その後3つのお寺を見せて頂きました。

    
真中のお寺は村のお寺で、お祭りは此処でやるようで、のぼりが立っていました。
中は華麗に彩られていました。それぞれクリックすると中の写真になります。
左のお寺の庭は酷く荒れていました。右のお寺には立派なマニ車がありました。

   此処は故人のお宅の仏間ですが、まるでお寺の中の
ようでした。お経を納めた棚がぎっしり並んでいます。
但し、この家のご主人一家は町のほうへ出ていて、使
用人が留守を守っていますが、時々風をいれる位な 
ので、傷まないかと心配です。
経文の一巻でも、その方面の人にとってはすごい宝物
でしょう。

10日に伺った Mis セルチャンに昼食を招待されました。
Mis セルチャンは林檎のブランデーを作っています。このブエランデーは、地元の人と、
街道を通る人にしか売ってはいけないそうです。彼女はアルジュンさんのお母さんの友達で、
英語を話します。自分は正式に習ったのでは無いが、子供達をポカラの寄宿学校に入れて
勉強させたら、家へ帰ってきてからも、子供同士で英語をしゃべるので覚えたそうです。今
お子さん達はイギリスやアメリカ またネパールでも町に住んでいて、家には誰もいなく、
彼女一人が使用人を使って、工場の切り盛りをしています。
  
10日には其の日の仕事は終わっていましたが、工場を見学した後で
人参のブランデー・オレンジのブランデー・?のブランデー等の試飲をして、それぞれ
ブランデーを購入。私は人参の小瓶を2本。そうしたら各自に林檎のブランデーを
プレゼントしてくれました。しかも普通サイズのを、恐縮。

  
この日はトレッキング中の外人も見学にきていました。左の写真は中庭です。

私達はネパールの家庭料理 ダルバート をご馳走になりました。
ご飯から時計回りに、ダル(スープ) ・ 青菜 ・ カリフラワーとじゃがいも ・ 野菜 ・ 豆
チキンのカレー ・ マトンのカレー ・ 小鉢は漬物と酸っぱい漬物

二階には立派な仏間があり、中庭を挟んで其の反対側には、河口慧海 が泊っていた寝室が
あります。河口慧海は明治30年(1897)に日本を出立し、ネパールからチベットへ
日本人として初めて入った人です。二度目の時には、トゥクチェのこの家に2ヶ月くらい
滞在していたとかで、仏間も寝室も保存して有ります。以前 NHKテレビで
河口慧海を紹介した時、この中庭に村人が集まっていたのを思い出しました。

  

食事の後河原へ出て、アンモナイトを探しましたが、私はゼロ。屈むので腰が痛くなりそうで
いい加減で止めました。れい子さんはなんと6個も拾いました。

  
翌朝Mis セルチャンがお土産にと、各自に1個づつアンモナイトを持ってきて下さいました。
一つも無かったので、すごく嬉しく、感謝、感謝です。
上手に割らないと化石の部分が出てこないとか。じわじわと熱してから急激に冷やすそうです。

この写真は普通のカメラで写したものをまたデジカメで写しました。

この日の夜の食堂は、フランス・アメリカ・イスラエル・ネパール・日本と多種多様。
こうゆう時、語学の出来ない悲しさを痛感します。

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